今回は和歌の世界で超有名な「紀貫之」について
わかりやすく解説致します。
「土佐日記」の作者としても、よく知られていますね。
紀貫之が日本の和歌文化や文学に与えた影響はとても大きいです。
それらについても、「紀貫之が有名になった理由」として記載しています。
紀貫之とは?
紀貫之とは、和歌を詠む歌人です。三十六歌仙の一人でもあります。
三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)とは、藤原氏の『三十六人撰』(さんじゅうろくにんせん)に載っている平安時代の和歌の名人36人の総称のことです。
和歌において語る場合、紀貫之について触れる必要が、必ずあるぐらい重要な人物です。
また、土佐日記の作者でもあり、「日記文学」のジャンルを広めた人物でもあります。
そのため、歌人というだけでなく、文学史においても重要な人物です。
土佐日記を始めとする「日記文学」について詳しく知りたい方は、
こちらをご参照下さい。
紀貫之が有名になった理由 その1
歴史上、平安時代中期ごろ、日本はとても安定してきて、
そのころ花開いた文化が「宮廷文化」です。
例えば、左右に分かれて歌を詠み合う「詠み合い」です。
この「詠みあい」などで和歌が流行し始めました。
そんな中、905年に醍醐天皇の命により、勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)『古今和歌集』が作られました(編まれました)。
勅撰和歌集とは、天皇や上皇などの命令で作られた公的な歌集のことです。
当時の代表的な歌人である「紀友則」、「紀貫之」、「凡河内躬恒」、「壬生忠岑」の4人が選ばれ、
紀貫之が指導的な立場となって完成させたといわれています。
この『古今和歌集』の編纂が紀貫之をとても有名にしました。
さらに、『古今和歌集』の「仮名序」を紀貫之が書きました。
「仮名序」とは『古今和歌集』に添えられた2篇の序文のうち、仮名で書かれた方を指します。
要するに、天皇の命によって作られた、古今和歌集の作者の代表者であり、
さらに始まり部分である「序文」を書いた人、ということで紀貫之は有名になりました。
公的な文章に「かな」が載ったことで、漢詩に比べて劣るとされていた和歌の地位を確立させました。
8代集 (補足)
平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて撰集された8つの勅撰和歌集の総称を「8代集」と言います。
・『古今和歌集』(こきんわかしゅう)
・『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)
・『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)
・『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)
・『金葉和歌集』(きんようわかしゅう)
・『詞花和歌集』(しいかわかしゅう)
・『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)
・『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)を指します。
これら8つを指します。
ちなみに、日本で一番古い和歌集は「万葉集」です。
「万葉集」について詳しく知りたい方は、下記の記事をご参照下さい。
紀貫之が有名になった理由 その2
紀貫之が有名になった理由その2は、
やはり「土佐日記」の存在です。
驚きですが、紀貫之は生涯、官位にはなれませんでした。
要するに、高い役職には就けなかったんです。
『古今和歌集』編纂時も御書所預という、今でいう図書館職員でした。
紀貫之は退職後、地元に帰る旅の途中、記録として「かな」を用いて、
日記を書きました。それが『土佐日記』です。
この土佐日記が日本で初めて「かな」を用いて書かれた日記文学とされ、
紀貫之は日記文学というジャンルの先駆者として有名になりました。
内容は、亡くした娘への思い、京への思い、旅の不安など、
心理描写が多く、それも今までの漢字だけでない、「かな」を用いることで、
些細な心理の変動まで、細やかに書かれています。
なので、日記という体を成しながら、
創作性も高い文学作品として書き上げた、という点で『土佐日記』の功績は大きいとされています。
最後に
今回は「紀貫之」について説明しましたが、
『純文学』特化メディアの「ブンガクブ」では、オススメの純文学はもちろん、芸術や文化、歴史など純文学をより楽しめる情報についてもわかりやすく解説しています。
是非、他の記事もご参照下さい。
今回は、見てくださいありがとうございました。
終わり
(参考:小和田哲男.1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365歴史編(pp.198-200).文響社.Kindle版.)