今回は芥川龍之介 大先生についてわかりやすく説明します。
芥川賞などでよく聞く名前ですが、
実際どんなことをした、どんな人なのかわからない人って多いですよね。
今回は分かりやすさ重視で説明します。
芥川龍之介の経歴について
まず芥川龍之介はという名は本名です。
由来は辰年、辰月、辰日、辰の刻に生まれたため 「龍之介」と命名されたそうです。
生後数カ月で、母が精神を病みます。
そして養父母に引き取られました。
その影響は、性格や作品に色濃く影を落としているといわれています。
しかし、少年時代からたくさんの文学を読み漁っていたそうです。
この頃から夏目漱石を尊敬していたそうです。
そして、勉学はとても優秀で最終学歴は東京帝国大学英文学科卒業です。
しかも2番目の成績で卒業しています。
芥川龍之介の文学人生について
本格的に執筆を始めたのは、東京帝大時代です。
東京帝大では学生が中心として、文芸誌『新思潮』の発行をおこなっていました。
そこで、高校時代からの同級生である、
後に作家となる久米正雄(1891~1952)、菊池寛(1888~1948) 松岡譲 (1891~1969)らと出会い、ともに創作活動をする仲となります。
その後、それぞれが作家となってからは、彼らとともに「新思派」と呼ばれ、大正文壇の一拠点を築きました。
その後も『新思潮』に作品を出しますが、
結局は東京帝大の学生が中心として刊行していた文芸誌なので世間に広く知られることはありませんでした。
しかし、『新思潮』に出した『鼻』が、当時一流文芸誌だった『新小説』 に転載され、
それ以降、世間に広く知られるようになりました。
この年の終わりに、漱石は亡くなっています。
大学を卒業した後は、海軍機関学校の英語教官の職に着きました。
でも創作活動は続けていました。
その後、 1919年に師である夏目漱石もそうしたように、
教職を辞して新聞社 (大阪毎日新聞社)に入社し、文筆業に専念するようになりました。
1921年には海外視察員として中国を訪れたりしますが、その後から徐々に体調が悪化し始めます。
晩年の代表作としては『河童』『歯車』 (いずれも1927) などが挙げられます。
そして1927年7月24日、 自宅で服毒自殺します。
「遺稿」として残された 『或旧友へ送る手記』の中に 「将来に対する唯ぼんやりした不安」という動機が記されていたそうです。
満35歳の生涯でした。
命日である7月24日は、晩年の小説に由来し、 「河童忌」と呼ばれています。
まとめ
芥川龍之介は間違いなく、大正時代に最も活躍した作家です。
1920年代から1950年代半ば、日本文学がほとんど海外に紹介されていなかった頃、 初めてその名が広まった近代日本の作家ともいわれています。
今回は「芥川龍之介」について説明しましたが、
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是非、他の記事もご参照下さい。
今回は、見てくださいありがとうございました。
終わり